憎悪を基盤に置く保守主義

日本の「保守」は社会主義 - 田中良紹の「国会探検」

日本の自民党民主党との間に英国の保守党と労働党や米国の共和党民主党のような違いを作れるかと言えば難しいと私は思う。なぜなら日本の「保守」は戦前から一貫して「社会主義的経済政策」を推進し、戦後はまるで官僚と一体化して、ソ連や中国もうらやむ社会主義的成果を作り上げてきたからである。

これまでの日本に社会主義的政党はあっても、英国や米国のような保守政党は存在しなかった。自民党は「保守」を自称してきたが、世界から見れば一党独裁社会主義政権である。それが官僚の作成した計画経済で高度成長を成し遂げた。その結果、世界でも例を見ない貧富の差の小さい一億総中流国家を作った。その成功体験を持つ自民党が、そもそもの力の源泉を投げ捨てて、英国や米国のような保守政党に脱皮できるのだろうか。

英国の保守党と労働党との間には基本的に富裕層と労働層を支持基盤にする階級的な違いがあり、両党はそれぞれの支持基盤を基に中間層を取り合う事で政権獲得を目指す。米国の共和党民主党は「政府の関与を嫌う小さな政府信奉者」と「政府に政策の実行を求める大きな政府信奉者」をそれぞれの支持基盤とし、共和党キリスト教の一夫一婦制を重んじて妊娠中絶に反対、民主党は女性の社会進出を認め、中絶に寛容な傾向を持つ。

ずいぶん誇張が混じっている。揺り篭から墓場までと言われた英国の高福祉政策が保守党政権下でも維持されたことを踏まえれば、田中氏のこの説明は「嘘」である。
戦後に限っても保守党が与党であった期間の方が長いのだ。
富裕層と労働層、資本対労働で言えば、有権者には労働者の方が圧倒的に多いのだ。まともに両者がぶつかって、資本側に勝ち目はない。
修正資本主義下の保守政党は多かれ少なかれ先進国ではどこの国でも社会主義的かつ福祉主義的で、左翼との違いは経済政策においては程度の違いに過ぎない。
民生の向上を計ることによって、資本と労働の対立を緩和してきたのが、戦後の保守政党のデフォルトな姿であって、それは国民のためでもあったが、何よりも第一に保守政党自身のためであった。
「自ら拠って立つ両足を失って立っていられる者は誰もいない」のである。
つまり経済政策的には、保守・リベラルの間にはベクトルの違いはほとんど無く、あるとすればスカラーの違いであった。経済政策が主要政党間で近似することによって、有権者はむしろ選択可能な範囲内で、政策を選べたのである。
80年代のサッチャリズムも経済政策的な意味合いで言うならば、本来はこの予定調和的な選択内の出来事であったと言える。それが、限度を越えて、時代精神としての正義を伴ったのは(それは金融ビッグバンから昨今の金融危機へと至る一連の動きを下支えした)、社会主義陣営の崩壊という「予期せぬ出来事」があったからだった。
自由民主党が仮に社会主義政党でなくなったとして、既に選択可能な範囲内を担保とする安定的な国民経済構造は無いのだから、小さな政府を志向するならばより階級闘争的、純粋にイデオロギーの対立になる。
この部分で「民主党との違い」を打出そうとするのは愚の骨頂で、それは単に有権者の多数が資本家なのか労働者なのかを考慮すれば子供にも分かる理屈だ。
ブティック政党としてニッチを狙うつもりならばそれでもいいが、それは国民政党としてのアイデンティティの死となるだろう。
残る保守の基盤は、要は反自由主義であって、社会的な抑圧を、「伝統」「家族愛」「愛国心」などと呼び、マイノリティを憎悪する層に訴えかけるしかない。
夫婦別姓に反対したり、国籍法改正を阻害したり、非嫡出子差別を強化・放置したり、特定の宗教に自治体として肩入れしてきたり、そういうものがつまりは「穏健保守」の本質であって、自分たちの好む社会像のためには、法の名においてマイノリティ差別や抑圧があっても構わないと考える人たちである。
経済政策において対立構造を最小化する時に、国内政策における保守の支持基盤はそういうところにしかあり得ない。
保守主義者とは憎悪する人たちなのである。
私はかつて、法務大臣ポストが伴食化して久しいと書いた。
法務大臣ポストは長らく懸案もさほどなく、無能な政治家を処遇するポストになっていた。
それはつまり法務における問題を問題と保守が認識してこなかったから懸案がなかったのであって、民主党政権が誕生するや否や、千葉法相がこれまで抑圧されていた諸問題を浮かび上がらせる形で重要ポスト化したのも道理である。
私はこの民主党政権の大きな意味合いは法務行政にこそあるだろうと思っていた。