遺品整理の現場では、まれに遺骨がそのまま残されている事が有ります。
そもそも遺骨はお墓に入るものという考えが当然であるが、お墓に入れない悲しい遺骨が最近は多くなっているのです。
お墓に入れない理由の一つに、都心ではお墓の値段が高すぎて購入できず”お墓が無い”人が多くなっているという事実もあります。
田舎には先祖の墓が有っても親子ともども親戚関係と長く完全に疎遠になっていて、親が亡くなった事さえ田舎の親族に告げていないケースもあります。
こんな場合は、事後報告で墓に入れてほしいと言えるわけがないですよね。
いづれにしても自分たちや親がこの世から去った時に、どうするかという事をまったく想定していなかった人たちは、行き場がなくなってしまうのも当然のことかもしれませんね。
そして遺骨を放棄する人々が増えている。
なんとも悲しい時代だ・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は、一件のご自宅へお邪魔しました。
83歳の一人住まいの女性で、半身麻痺から1年リハビリで回復し1キロ程度までならゆっくりと散歩もできるようになったとお話をされました。
数年前まで現役で働いておられて、だれにも迷惑を掛けづに自立された立派な方でしたが、自身の最後のための準備として遺品整理についてのご相談の電話が有り、私がお伺いする事になったのです。
まず、お邪魔して私が驚いた事が有りました。
それは、部屋にパソコンが3台もあるという事です。
なんとこの方、83歳でパソコンを使いこなしているのです。
「これは仕事用、これはネット用、これは遊びでつないでないのよ、私機械が大好きでね」
普通、高齢者のご自宅にはパソコンなんてありません、それが3台もあるだけで尊敬ですよね。
それだけでなく、携帯も完全に使いこなしていて銀行の口座もモバイルで振り込みも行うんですって・・・
とにかく、話をしていても私との年齢差39年のずれが全くないのです。
それどころか私よりも進んでいるではありませんか・・・恐るべきです。
しかし、体と頭は比例しないのが残念です。
なぜかその反比例しているお話を聞きながら可哀そうになってしまうのですよね。
・・・・・・・・・・・・・・・
その後、さまざまなお話をお聞きし、遺品整理の説明を申し上げていたのですが、突然聞き捨てならない事をおっしゃったのです。
それは、遺骨のお話でした。
ご姉妹はいらっしゃるのですが、遠方にいてあまり仲が良くないらしく火葬後の遺骨の行き場所についてでした。
ご本人は、お墓に入りたいという事についてはこだわっていなかったので、散骨を希望していましたが、遺族が希望通り行ってくれるかどうかに不安を感じていたのです。
「最近は、ゴミに遺骨を出してしまう人もいるらしいわね、死んだら分からないとは言え、やっぱりゴミに出されたくはないのよ・・」
「いや、親族の方もそんな事はしないでしょう・・」
「そう思うんだけど、そんな事なら最悪電車の網棚のほうが私は良いと思っているのよ」
「・・網棚ですか?」
「そうよ、網棚に置いていてくれたら、忘れものとして半年ほど保管されたら上野にあるお寺で合祀(ごうし)墓に入れてくれるらしいわ」
「いや、でも忘れ物ですか・・」
「それでも最悪はゴミに出されるよりも良いじゃない」
「ちょっと極端ですが、まあゴミよりはね・・」
「まあ、あまり気にしないであなたの事じゃないんだから」
「はぁ・・」
私も、この仕事を営んで早7年目ですが、初めて聞いた納骨方法に唖然としました。
そんなケースがどれだけあるのかは分かりません、しかしそんな無責任な事だけはこの世の中で起こってほしくはないですね。
皆様は、ご自分の遺骨をどうしてほしいですか?
コメント利用規約に同意する
このご高齢のお方が現代社会に対応されている気力に尊敬以外何も言葉が出ません。私の両親は携帯すら必要ないともっておりませんから(-"-)
しかし、遺骨が遺失物の場合の納骨方法・・・私も仕事で遺失物に携る事もあった為(遺骨の経験はありませんが)勉強になりました。
私なら。。。主人は長男で義理父もまだ健在ですし、お墓どうなるのかしら???子どもは娘2人だし、障害3人だけのお墓って考えると(私は嫁ですから他人ですしね。。。)娘2人に無縁仏として檀家であるお寺に葬ってほしいといつか伝えなければ^^;
傘や財布や携帯電話に並んで、必ずそこに遺骨と位牌の名前が出てくるんですよね。
仮に網棚に置き忘れたって、絶対思い出すはずなのにと、不思議に思っていたんです。
こんな形で、長年の謎を解きたくなかったです・・・。
親戚の「お一人様」、私の実家が見守っていますが、万一のときは、葬式は実家で出して(実家近くに住んでもらってるんで)、お骨は、親戚の実家のお墓で、という約束になってますが.....
こういう人もいるんですね.....
死んでも、骨や墓はなくとも、誰かの心の片隅でそっと生き続ける方がいいな…って思います。
「白骨に我いずくにか在る、青瘀に人もとより無し」
つまり“白骨の中のどこに魂があるのか。青膨れた屍体に霊性はもはや存在しない”というほどの意味です。
何かと霊感商法やら霊視商法のタネにされ易い真言密教の開祖が千二百年前に、すでにこう、はっきりと断言しているクールさに、まず驚かされます。
時が江戸時代に下っても、よほどに身分が高くなければ、また身分が高くても、相次ぐ震災や火災による区画整理により、常に遺骨は放棄されるべき性質のものでした。
時代はもっと下って、八万とも伝えられる東京大空襲の犠牲者の遺体は、東京中のそこここの公園の地中に、この21世紀の今も眠り続けたままだといいます。
献体→納骨について後見人証書
内に納骨について記述がありました。
身につまされる思いです。
先祖がいるから私があるのだけれども
別段私の骨は山か海へ流してくだされば助かります。
妻は合祀墓が希望。両親も合祀だそうです。
去るもののは残されたものに負担をかけること無かれ。まあ残されたものの自由なのでようけれど・・・・
お気に入りに登録させてもらいました。
というのもエンディングノートを探していたこともあるからです。
友人が孤独死にあいました。まだ家族がいたので
翌日に発見されましたが、同級生はショッキングでした。
その後、離婚して子どもがいる友人が
エンディングノートを買ったと言ってまして
私も母と相談しひとつだけ購入しました。
さて、私は独身です。
両親には無縁仏にして欲しいとお願いしてますが
(両親にお願いするのは間違いですが一応許可もらう。。)
独り身だし、兄弟に迷惑をかけたくないし
さっぱりとしたいのです。
母は断固拒否です。一緒に私といるんだっていいます。
友人のお父様は、滋賀県で愛する湖に散骨して欲しいとのことで
ヨット仲間と一緒に友人がしたようです。
位牌も何も残したくありませんねえ。
どうしたらいいんだろう。
といっても、私自身は「死んでしまったら、それでおしまい」と考えてるので、お墓とかナントカって言う物に興味はないんですよね
ゴミに捨ててしまっても自分自身は知らない訳だし
mixiでこちらのことを知り 読ませていただいて 父のことを思い出しました
一人暮らしでお医者様以外の誰にも見取られることなく亡くなったのですが そのあとの事を父の兄弟たちは誰も何もせず 何年も連絡を取ってなかった私の所に突然連絡が来て それでも何とか伯母の力を借りて 祖母のお墓に入れてあげることが出来ました
生活保護を受けていてくれたから行政のお世話になることが出来たけれど それすらなかったら父はきっとホームレスでどこで無くなったか判らなかったでしょう
生きてる間に何も出来なかったけど それでも最期くらいはできるだけのことをしようと思いました
自分のときは…散骨してもらえればいいかなぁと まだあまり具体的に考えていないのですが できれば余計な柵や物品は残したくないのが本音ですね
最後になりましたが お気に入りに登録させていただきたいのと 自分のブログにリンクはらせていただきたいと思います
→http://myhome.cururu.jp/eugennie/blog
残された者が困らないよう、キーパズさんに頂いたエンディグノートに、全て希望は記してあります。
戒名、葬儀不要、ただ花好きなので、花だけはたっぷり用意してもらう事。
遺骨は大好きな土地の樹木葬で、桜の木の下に埋めてもらうよう、お寺に生前予約をしてあります。
死んだらただ土に還るだけです。
様々なしがらみから解放され、残された者にも負担を掛けず、静かに眠りたいと思います。
時々自分の眠る場所の美しさを思い、
帰るべき場所のある事に心安らぐ思いです。
子供の頃飼っていた犬も猫も山羊も、みんなその山の中腹に葬りました。
人間のお墓もその山の中に自然石をちょん、と置いただけの物があります。
卒塔婆が辛うじてお墓ですよ、と主張しています。
御社から頂いたエンディングノートには、あそこに納骨してほしい、と記入済みです。
でも、子供たちがそうしなくても別に気にしないからね、とも書きました。
気を張る法名などは全然いらないからお断りするように、と書きました。死んでから知らない名前をつけられても嬉しくないですからね。
なるべく残った者に負担をかけないやり方を模索しています。
その日、私は泣きながら靴箱に入れて綺麗に花を飾り、明日になったら庭に埋めてあげるねと約束しました。
翌朝起きたらウサギがいません。
私が探していると母親が一言「もうないわよ、ゴミで出したから」。
ショックで「なんで!」と非難しても平然と「いいでしょもう別れも済ませたんだから。どうせ死んでるんだし」と言いました。
この話を読んでふと昔の出来事が蘇りました。
父がなくなり母親は豪勢な墓を建てました。誰が管理するんだろうなぁと思います。
私は一生一人身予定で無縁仏を希望しています。ゴミ収集車に攪拌されてウサギは痛かったんじゃないかなと今でも思います。あれを阻止できたら。寝る前に枕元まで連れてこればよかったと何度も。
ウサギは確かにもう亡くなっていたけれど、なにをしてもわからないと言われたらそうだけど、私の胸は痛んだままです。
死というものは不思議なものですね。
本も拝読させていただきましたが、亡くなった方の暮らしぶりや、そのような状況に入っていかれる仕事の内容や描写に衝撃を受けました。文章ですらそうですから、現場は……。
自分も一人暮らしなので、もしものときはどうなるんだろうか、と否が応でも考えさせられました。
今回の老人の方も、長い時間の末に辿り着いた「その後」の気持ちなんだと思いました。
一度もそんな事は考えたことないですね。
このブログを読んでいると様々なことを考えさせられますね。
ゴミとして捨てられるのは避けたいところですけどね・・・