Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

岡正也さんのコメントへの私なりの返答

http://d.hatena.ne.jp/n-291/comment?date=20070310#c


※以下、若干推敲するかもしれません


まず、本城直季氏の手法と表現ですが、
2005年後半あたりから、本人もさすがにマズいと思ったのか、あるいは、やましさが募ったのか、
他の写真家(おそらくオリボ・バルビエリ Olivo Barbieri)に「インスパイヤ」されて
模倣したということを、インタビューなどで告白し始めています。
しかし、その語り口も、穿った目で見れば、媒体の性質──写真について専門的な知識を持つ人々が
目にするものなのか、それとも主に一般の人々が目にするものなのか──によって、
巧妙にコントロールされているようにも思えます。
一般向けの媒体では、本城氏の手法と表現が、
さも自分が練り上げたオリジナルな表現のように喧伝されてしまっています。
そうした言説づくり──本城氏の写真とは逆でニセモノをホンモノと見せるような──は、
やはり問題でしょう。もしかすると「自分のウソっぽさを表現したい」という
裏コンセプトがあったりするのかもしれませんが。。。


では、なぜ彼(ら?)は、素直にいつ誰から模倣したのかを明かさないのか。
理由は簡単です。広告業界内でのランクが下がるからです。
つまり、彼(ら?)は代理店の顔色をうかがっているだけなのです。
ランクを下げないためには、クライアントに高く売れるよう、
貴重な才能の持ち主であるかのように自己演出をほどこし、
いつまでも広告写真家としての存在感を印象づけ続けなければなりません。
最近発売された雑誌の写真特集のインタビューに、
「最近はネガをスキャニングせず、アナログでの作品制作にも取り組んでいる」
というふうなことをわざわざ掲載していたのも、
自分の価値を維持し、その下落を少しでも防ぐためでしょう。
いまだに一般の写真愛好家に向けては、本城氏が“誰にも真似できない技巧”で
あの写真を撮っているかのようなイメージづくりがなされています。
何か超えられない壁でもあるかのような。
また、ブランディングのために、「本城スタイル」などという、
まるでツッコミを要求しているボケ役のセリフのような
キャッチ・コピーまでも用意されています。
しかし、ウェブに氾濫しているオリボ・バルビエリ風の写真の数々を見ても明らかなように、
ああいった写真を撮ること自体はさして難しいものではありません。
たとえ大判を使ったとしても、機材の取り回しや細かいコツやなんかは、
勘の良い人がやれば労せずしてマスター可能でしょう。

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さらに本城氏の模倣(人はそれを「盗作」と呼ぶかもしれない)について付記しておくと、
「都市のウソっぽさを表現したい」という彼のコンセプトにも、
模倣(人はそれを「パクリ」と呼ぶかもしれない)疑惑があります。


本城氏が「都市のウソっぽさを表現したい」と語ったTOKYO SOURCEのインタビュー
http://www.tokyo-source.com/japanese/archives/2005/09/012.htmlは、
サイトの表記によると2005年9月にアップされたものです。
では、それを踏まえたうえで、オリボ・バルビエリ(バービエリ?)の
『Olivo Barbieri - Notsofareast』(Donzelli Editore, 2002/11/1)
http://www.amazon.co.jp/dp/8879897179を見てみましょう。
何か気付きませんか? 発行年が2002年ってことではないですよ。
発行年なら『Virtual Truths』のほうが早いですし、バルビエリは90年代後半から
風景をミニチュアに見せるタイプの作品を制作していたようですから。
また、オランダのFrank van der Salmも1995年に
風景をミニチュアに見せるタイプの作品を発表しています。
ここで見るべきはカスタマーレビューです。

建築物や都市風景が撮影されたこれらの写真は、どれも不自然な方向の面でピントが合っていて、そのピントが合っている部分も非常に狭い。
恐らくその効果のためだろうが、それらの写真は、模型の都市を接写したかのように見える。
写されたであろう被写体は明かに実際の建築、都市なのだが、撮られた写真(写真集だから当然さらにその複製物なのだが)を観た時に模型の建築、都市を観るようなウソっぽさを感じてしまう。
それと似たような感じを受けたのは、Thomas Demand(室内風景の模型を紙で作り、それを撮影して写真作品としている)の写真だ。
Demandの作品については、グラフィックのようなフラットな画面についての印象と、被写体である模型についての印象と、模型のモデルとなっているであろう実際の風景についての印象がかなり混乱させられ、その点が魅力的だと思う。
Olivo Barbieri はDemandとはちょうど逆の(実際の風景を模型のようにみせるという)手法によって、Demandの作品と同じような効果を観る人にあたえているように思える。

と、ありますが、どこかで聞いたような言い回しを発見することができます。
いやはや興味深いシンクロニシティです。


このレビューが書かれたのが2003年の10月ということは、
TOKYO SOURCEのインタビューのほぼ2年前になります。
本城氏が写真新世紀の傑作(これは佳作の間違いでしょう)を受賞した時期と比べてみても、
約1年前ということになります。
インターネット時代の今現在、これは何を意味しているのでしょうか。。。
このレビューを執筆した写真家の鈴木慎吾さんにも、少し意見を聞いてみたいものです。
http://www.shin-go.net/zakkan/book/01.html
http://www.shin-go.net/


商業写真の世界で活動するなら、「なぜ撮るのか」を問われることはありませんが、
写真表現の世界で活動するのなら、「なぜ撮るのか」を問われることになります。
何も考えずに模倣(人はそれを「サルマネ」というかもしれない)を続けていればよかったのが、
考えなくてはならなくなったとき、本城氏は途方に暮れてしまったのかもしれません。
そして、やがてインタビューなどを受ける機会が増えてきたときに、、、
まあ、これ以上はよしておきましょう。
ミクロス・ガールMiklos Gaal)と本城直季氏の2人が、
同じ時代に、たまたま、手法と表現が、カブった、
などという俗説もありましたが、
今回こそは、単なる偶然なのかもしれませんし。

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そんなこんなで、某掲示板に書かれていた、
キース・ヘリングの真似をしてポーズが違うからセーフと言い張ってるようなもの」
という言葉には説得力がありました。
だから、現状の本城氏はほぼ評価に値しません。
いまだにバルビエリ風の手法・表現の模倣という域を出ることができていないと思うからです。
表現を深め進展させるどころか、むしろ、消費者のニーズを意識しすぎたずぶずぶの表現や
下手な下心みえみえの写真になってしまっているように思います。
つまり、エンターテインメントに分類されるべきものですね。
本城氏(ら?)がいくらプロモーションに努めても、それは消費を早めるだけでしょう。


しかし、評価に値しないのは、あくまでも現状です。
ひたすら続けてみれば何らかの進展があるかもしれませんし、それは誰にもわかりません。
模倣と言われようがブレイクスルーを見つけるまで続けてみるのも、
悪くはないのではと思いますね。
広告業界での賞味期限が切れる前に、どれだけのことができるかが勝負ではないでしょうか。
幸いにして木村伊兵衛賞を手にしたことですし、延命をはかれたわけですから。

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内原恭彦さんについてですが、
表出された写真の内容がかなり違っているので、
森山大道中平卓馬の言説を参照していたところで
それほど問題はないように思います。
キース・ヘリングの真似をしてポーズが違うからセーフ
と言い張ってるような」写真ではない、ということです。


確かに、内原さんの発言には、一貫性がなく矛盾していることもあるかもしれません。
また、既成の権威を否定するというか、あまのじゃくな部分というか、
乱暴な発言や毒のあるジョークが飛び出すこともあるかもしれませんが、
しかしそれは、日々写真を撮るなかで、いやおうなく写真に対する向き合い方や
考え方が変化しているということの証しではないでしょうか。


よって、とくに本城氏と内原さんがやっていることが同じだとは思いません。

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あと、岡正也さんは「行為」という言葉を広義の意味で使っているのでしょうが、
写真家がよく使う「行為」という言葉について少し。


「行為としての写真」とか、「写真行為」とかいう言い回しを好む方も多いのですが、
私自身は、この言葉をほとんど価値のないものだと思っています。
結局は表現されたものがすべてです。
その行為=アクションが鑑賞者にダイレクトに働きかけ、
ある経験として何らかの感覚をもたらさないかぎり、
その行為にさしたる意味はありません。少なくとも鑑賞者にとってはそうです。
だから、写真を使ったオーソドックスな表現の場合は、
表現主体が「行為」「行為」といくら言い募ろうとも、
それは単なる自己満足に陥っていることがほとんどです。
ほぼ自己肯定のためのスローガンとして、
「写真行為」というふうな言葉が利用されているにすぎません。
これは「写真行為」なんです。わかるだろ? とか言われても、
私にはさっぱり何のことやらです。いや、それは大げさでした。
キモ痴話、じゃなかった、気持ちはわからなくもないのですが。。。


それに、「行為」=「作品制作のための活動」だとすれば、
そんなことは当たり前のことですし、とりたてて発言すべきことではないでしょう。
写真村の外の人々に聞かれたら失笑を買うだけだと思います。
写真家同士で、会ったときにちょこちょこと意見を交換するだけで十分です。


また、いくら「写真行為」なるものを積み重ねてみても、結果がすべてなので、
本人以外の他者にとって、その行為自体には、たいした価値はないでしょう。
キャラを立てるという、いぎたない手段もなくはないのですが。。。
むしろ、甘酸っぱいような饐えたような、気持ちの悪い感傷や思い入れが、
べたべたと張り付いてくるばかりになって、非常に具合の悪いことになってきます。
そんな自分が好き。なんて、奇特な方もいるみたいですが。。。
しかし、私の経験では、そういう方々に「本物」ってあまり居ないように思います。

田村俊介くんのアイロニー

以下、私が写真を始めて間もないころの記憶をたどって昔の田村俊介くんのブログを検索。
勝手な解釈かもしれませんし、見当違いかもしれませんが、
なぜ田村くんが例の「モザリナ」という作品を制作したのかが、
なんとなくわかるような気がしました。


◇「パクリ パク 写真による台頭計画」のキャッシュ
http://72.14.235.104/search?q=cache:C72TD5rLHkQJ:homepage.mac.com/shunsuketamura/diary.html+%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%80%80%E3%83%91%E3%82%AF%E3%80%80%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%8F%B0%E9%A0%AD%E8%A8%88%E7%94%BB&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp&ie=UTF-8&inlang=ja
◇「エリックはマーティン・パー パク」のキャッシュ
http://72.14.235.104/search?q=cache:gQDdraZUV70J:homepage.mac.com/shunsuketamura/diary/0412.html+%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AF%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%80%80%E3%83%91%E3%82%AF&hl=ja&ct=clnk&cd=5&gl=jp&ie=UTF-8&inlang=ja


あと、こちらもどうぞ。
◇ TAMURA’S PHOTOS [DIARY] - タムタム死ス
http://d.hatena.ne.jp/shunsuketamura/20050309
◇ TAMURA’S PHOTOS [DIARY] - ウラ写真新世紀 in ガス橋らへん
http://d.hatena.ne.jp/shunsuketamura/20050628