「偽スティーブ・ジョブズ(Fake Steve Jobs)を始めた理由は,IBMやSun Microsystems,EMCといったエンタープライズITベンダーの取材が『退屈』だったからだ」--。米国の人気ブロガー「Fake Steve Jobs」の「正体」で,本業は米Forbes誌のSenior EditorというDan Lyons氏の告白は,筆者の胸に突き刺さった。筆者もまた,エンタープライズITを取材している一人だからだ。

 Lyons氏が当初は「会社に内緒で」始めた「The Secret Diary of Steve Jobs」は,米AppleのCEO(最高経営責任者)であるSteve Jobs氏の偽物(Fake Steve Jobs)を名乗り,IT業界にまつわる様々なトピックスを,毒舌を交えてこき下ろすというブログであった(写真)。その人気は(特にForbesの編集者とバレるまで)絶大で,米Business 2.0誌の「影響力のある101人のビジネス・パーソン」の1人に選ばれたほどである(関連記事:Business 2.0誌のWebサイト)。

写真●米Forbes氏のDan Lyons氏(左)と,Fake Steve Jobs氏(右)。Web 2.0 Expoの講演にて
写真●米Forbes氏のDan Lyons氏(左)と,Fake Steve Jobs氏(右)
Web 2.0 Expoの講演にて
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 そのLyons氏が,2008年4月にサンフランシスコで開催された「Web 2.0 Expo」の基調講演に登場して心境を語った際に飛び出した言葉が,前述の「Fake Steve Jobsを始めた理由」であった。現在47歳のLyons氏は,Forbes誌で10年以上エンタープライズIT業界を取材してきたベテランの「IT記者」である。Lyons氏は当初,Forbesのサイト内でブログを始めようと考えていたが,社の上層部に却下された。そこで,会社に内緒で始めたのが「The Secret Diary of Steve Jobs」だったという。

 Lyons氏は,「Fake Steve Jobs」を始めた理由をいくつか挙げている。前述の「(エンタープライズIT分野の取材が)退屈だったから」というもの以外にLyons氏は,「テクニカル・ライターとしての『恐怖』もあった」と打ち明ける。IT分野で「破壊的(disruptive)」と表現されるようなイノベーションは全て,Lyons氏の取材対象であるエンタープライズIT分野ではなく,コンシューマIT分野で起こっている。テクニカル・ライターとしてイノベーションが起きている領域に首を突っ込んでいないことに恐怖を感じたことが,AppleのJobs氏を題材にブログを始めた理由だったというのだ。

ちなみにLyons氏は,Jobs氏を選んだ理由としてほかにも「Macが好きだから」「Appleファンの生態が愉快だから」「Jobs氏の言動が愉快だから」などを挙げているが,これらの詳細を述べるといらぬ差し障りを招きそうなので,ここでは紹介しない。

 Lyons氏の語る「エンタープライズITの取材は退屈だ」「エンタープライズITだけ取材していては,テクニカル・ライターとして時代に取り残される」という言葉は,同じ「エンタープライズITを取材するテクニカル・ライター」である筆者にとって,「同感」としか言いようがなかった。だからこそ胸に突き刺さったのだ。

 「IT分野のイノベーションは全て,エンタープライズ領域ではなく,コンシューマ領域で起きている」というのは何も,Lyons氏の偏った見方ではない。大手調査会社の米Gartnerも,「ITコンシューマライゼーション(消費者先導型IT)」という概念を訴えている(関連記事:コンシューマITの“思想”が企業に入る)。「エンタープライズ(企業)は,より先進的なコンシューマ分野で起きたイノベーションを取り入れるべき」と,コンシューマ分野の優位性を認めている点で,Lyons氏の見解と同じである。

 筆者も,2006年1月にITproに異動して以来,それまでのWindows分野の取材に加えて,「International CES(Consumer Electronics Show)」や「Macworld」,「Web 2.0 Expo」,「東京ゲームショウ」といったコンシューマIT分野を取材するようになって,「ITコンシューマライゼーション」の動きを肌で感じている。幸い,ITproでもITコンシューマライゼーションを取り上げることになったので,筆者自身はLyons氏のようにブログを始めてはいない。もし,エンタープライズITだけに取材対象を限定されていたら,きっと退屈すると共に,時代に取り残される恐怖を感じていただろう。

コンシューマライゼーションとしてのクラウド・コンピューティング

 ITコンシューマライゼーションは今後,企業にとってより重要になる。これまではITコンシューマライゼーションといっても,「社内でAjaxアプリケーションを使う」とか「社員にiPhoneを配る」といった,枝葉末節のことしかできなかった。しかし近い将来,企業ITインフラ全てをITコンシューマライゼーションでカバーできるようになる。それが「クラウド・コンピューティング」である。

 クラウド・コンピューティングとは字義通り,「インターネット上に雲(Cloud)のように浮かぶ巨大なコンピュータ群を使って実行する計算処理(Computing)」である。米GoogleのEric Schmidt氏が,自社が運用するコンピュータ群を「クラウド(雲)」と例えたことから始まる(関連情報:Eric Schmidt氏が2006年8月9日の「Search Engine Strategies Conference」で行った講演)。

 クラウド・コンピューティングは,コンシューマにとってはもはや当たり前の行為である。GoogleやYahoo!といったサービス事業者が提供するWeb検索やWebメール,Web地図サービスといったコンシューマに支持されているアプリケーションは皆,GoogleやYahoo!のサーバー(クラウド)上で実行されている。これらのサービスを利用することがすなわち,「クラウド・コンピューティング」である。「Twitter」のようなAmazon Web Services上で稼動しているサービスを使うことも,クラウド・コンピューティングと言えるだろう。

 企業(エンタープライズ)が今,クラウド・コンピューティングに注目すべき理由も,「それが既に,コンシューマの常識になっているから」に尽きる。企業にとってのクラウド・コンピューティングもコンシューマ向けと同様に,(企業が利用する)アプリケーションをGoogleやAmazonなどのコンピュータ・クラウド上で稼働させることを意味する。

 GoogleやAmazonのコンピュータ・クラウドは,コンシューマ向けに低料金(専らタダ)でサービスを提供するために,コモディティ(日用品)ハードウエアを組み合わせて極力低コストに開発されている。つまり,コンシューマ向けに低コストで構築されたコンピュータ・クラウドを企業が利用するようになることが,クラウド・コンピューティングの「肝」なのだ。コンシューマ向けに大量に生産されたモジュールを活用して作られた低価格なパソコンが,企業に浸透したのと全く同じ構図である。

 IT技術の源がエンタープライズにあったのは間違いない。しかしエンタープライズこそが最先端という時代は,もはや遠い過去になった。筆者がここ数年来感じていたことに,Lyons氏は確信を与えてくれた。さよならエンタープライズ。少し寂しいが,そう言うよりほかない。