掛布雅之

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掛布 雅之
基本情報
国籍 日本
出身地 千葉県千葉市
生年月日 1955年5月9日(53歳)
身長
体重
174cm
78kg
選手情報
投球・打席 右投左打
守備位置 三塁手
プロ入り 1973年 ドラフト6位
初出場 1974年
最終出場 1988年10月10日ヤクルト戦(甲子園)
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

掛布 雅之(かけふ まさゆき、1955年5月9日 - )は、元プロ野球選手、現在は日本テレビよみうりテレビニッポン放送野球解説者新潟県三条市生まれ、千葉県千葉市育ち。4代目ミスタータイガース大阪府在住。

目次

[編集] 来歴・人物

少年時代から、指導者経験を持つ父親に野球のトレーニングを受ける。習志野高校出身。2年生の1972年、夏の甲子園に4番・ショートで出場したが、1回戦の東洋大姫路高校戦に敗退した(東洋大姫路にはのちに阪神でチームメイトとなる山川猛がおり、この試合で満塁本塁打を放った)。

3年生の1973年は県予選で敗れて甲子園には行けなかった。同年秋、父親が千葉商業高校の野球部長兼監督だった頃の教え子でヤクルト二軍監督だった小川善治に入団を頼み込んだが断られ、今度は千葉商の野球部監督経験者の篠田仁に依頼。篠田は懇意にしていた阪神タイガース安藤統男(同年限りで現役引退し、コーチ)に口利きを頼んだ結果、金田正泰監督へ話が伝わり入団テストを受けて合格し、ドラフト6位指名で契約金500万円年俸84万円で入団。1974年の春季キャンプで徹底的に鍛えられ、一軍オープン戦の対南海戦で初出場。掛布と同年南海ドラフト1位の野崎恒男から一軍オープン戦ヒット代打で打つ。

2死ランナー三塁での初タイムリーで打点付きの活躍をみせ、3月21日鳴門球場での対太平洋戦で初スタメン。中軸を打つショート藤田平結婚式で休みのため7番ショートでの代役だったが、東尾修から4打数2安打を記録。そして3日後、日生球場での対近鉄戦では内野の中堅であった野田征稔(後にマネージャー)も母を亡くして帰郷。またまた代役での8番サードで出場することになったが、その試合で何と4打数4安打の大活躍を見せる。一軍オープン戦が終わってみれば、18打数8安打2二塁打の活躍でついに二軍へ戻ることがなかった。高卒1年目にして一軍定着。同年のジュニアオールスターにも出場した。1976年に.325を記録、王貞治を上回る打率5位に食い込んでブレークし、その年のベストナインに選ばれる。さらに翌1977年にも大活躍、応援歌「GO!GO!掛布」も売り出された。

1979年、田淵幸一移籍したあとの主砲としてチーム新記録となる48本の本塁打(それまでのチーム記録は藤村富美男の46本。その後1985年にランディ・バースが54本で更新。しかし、現在でも日本人選手の球団記録。)を放ち、本塁打王となる。それ以降、1982年、1984年にも本塁打王、1982年は打点王にも輝くなど「ミスタータイガース」として人気を博した(当時はミスタータイガースから田淵を除外して、掛布が3代目ミスタータイガースと呼ばれたが、現在では田淵を含めて掛布を4代目とすることが一般的である)。1980年代前半は不動の4番打者。また、同学年でもある江川卓との対決は、両者が全盛期だった1980年代前半の名勝負といわれた。

もともとどちらかといえば中距離打者だった掛布が長距離打者となったのは、田淵の移籍というチーム事情が大きい。体格的に決して恵まれていなかった掛布は、猛練習による強靱な体力(特に手首)で打球をスタンドまで叩き込んだのである。しかしこの打法は体への負担も大きく、選手寿命を縮める一因となったともいわれる。後述するように、引退の発端となったのは手首への死球であった。手首の保護目的でリストバンドを着けてプレイした野球選手は、掛布が初めてである(一方、手袋は引退まで使用しなかった)。

阪神甲子園球場でホームランを量産するために、浜風とケンカするのではなく利用しようと研究を重ね、レフトスタンドへホームランを量産する掛布独特の芸術的な流し打ちを身につけた。以後レフトへのホームランが飛躍的に増え、球界を代表するホームランバッターとなった。

1985年の優勝時には3番ランディ・バース、4番掛布、5番岡田彰布からなるクリーンナップの一角を担って強力打線を形成し、優勝に貢献した。1985年のバックスクリーン3連発(掛布はバックスクリーン左に入った為、賞金をもらい損ねていたが、スポンサーのはからいでもらっている)ではバースに続いてホームランを叩き込み、この年の象徴のように語られている。1986年4月、中日戦でルーキー斎藤学投手から手首に死球を受けて不振に陥る。実質これが選手生命を絶たれる原因となる。それ以降華麗なバッティングは影を潜める。1988年にはプロ入り以来初めての二軍落ちも経験したが、故障続きでかつての打棒は甦らず、現役を引退。通算349本塁打は阪神のチーム記録となっている。

引退後は野球評論家を生業とし、監督、コーチの経験は一度たりともない(米マイナーリーグの臨時コーチを短期間務めたことはある)。

[編集] エピソード

[編集] 現役時代

特定の選手に対するヒッティングマーチは掛布が最初といわれる[要出典]。一番初めは「GO! GO! 掛布」のサビ。後に「ここまでとばせ〜放り込め放り込めカケフ」(六甲おろしの♪フレ フレ フレ フレ〜のフレーズ)に替わった。

現役時代は金鳥の蚊取りマットのテレビCMに長期にわたり出演した。プロ野球選手は「憧れのかっこいい人」という印象が強かった時代に、当初から三枚目的な役どころとして起用され、好感度を上げることになった。しかし、1980年に放映された同CMでは「これで安心して眠れるなぁ。」と三塁ベース上で居眠りする場面があり、この年ケガなどで成績を落としたことから、その内容がファンから不評を買った。

1980年のオフに、さるスポーツ紙の大阪版に「掛布を南海に放出、投手数名とトレード」という「スクープ」が1面に出たことがあった。球団は即座に否定したものの、江夏豊や田淵幸一の放出劇がまだ記憶に新しい頃で、ガセネタでは済まされない内容であった。掛布自身も大きな衝撃を受け、そうした話が出ないようにするため摂生に努め、翌年から1985年までは5年連続で全試合出場を果たすこととなった。

プロ15年間、公式戦でサヨナラ本塁打を打ったことが一度もなく、サヨナラ安打も1本のみである(ただし、オールスターでは1981年の第2戦でサヨナラ本塁打を打った)。オールスターには強く1978年には3打席連続本塁打の記録を残している。また、1981年にも第2戦〜第3戦にかけて3打席連続本塁打を記録しており、そのうち2本目が上記のサヨナラ本塁打であった。

山本浩二が1983年4月30日の阪神戦で、あとは三塁打さえ出ればサイクルヒット達成という場面において第5打席に左中間に長打を放ったが、晩年の山本では三塁まで狙うのはかなり厳しい打球であった。それでも果敢に塁を狙い、三塁で掛布雅之とのクロスプレーを制して悲願のサイクルヒット達成となったのだが、この時の掛布のタッチの動作が非常にゆっくりとした追いタッチであったため、このシーンは今でもファンの間で語り草となっている。そもそもサイクルヒットは達成の前にその機会を作ること自体が難業である。山本は前の打席で中前打を放ち三塁まで進んできた時に「カケよ、次の打席で外野を抜いたらどんな打球でもココへ突っ込むから、よろしく頼むで」と言って実行した山本。そしてタイミング的にはアウトだったろうにそれをセーフとした掛布。試合もこの時点で広島が12-0と大量リードしており且つ試合も終盤であったため、山本浩二に三塁打を許しても流れは変わらないと判断した掛布が独断で「粋な配慮」を見せたと言われている。このプレイに関し掛布は「送球が反れ、捕球時に前につんのめったためタッチが遅れた。八百長ではない。」と言及していた(1983年5月1日・朝日新聞関西版より)。しかし2008年7月6日放送の「中居正広のブラックバラエティ」において、掛布は山本浩二と同席のもと、わざとタッチをしなかったことを告白した。その際、この当たりでは3塁までこないだろうと思ったら走ってきたので焦ったこと、タッチを遅らせるためわざとベースから離れファウルゾーン側に下がったこと、それにも拘らず真弓明信からの送球を捕球した段階で完全にアウトのタイミングであったこと、その様な状況が重なりかなりの葛藤があったことも語っている。

1984年には宇野勝と激しく本塁打王を争い最後の直接対決2連戦では両者敬遠攻めに遭い、本塁打王を分け合った。この敬遠の応酬についてはセリーグ会長が両監督(安藤統男と山内一弘)に注意し、最終的には記者団に謝罪するほどであった。

1987年3月22日、飲酒運転逮捕された(その時乗っていたのはフェラーリ)。マスコミからの非難のみならず、久万俊二郎オーナーにも「欠陥商品」と痛罵されてしまう。公共交通機関を運営する会社の社長(当時)として、社員の重大な交通違反を許す訳にはいかなかったのであろう。この件は、掛布がタイガースに愛着を持ち続けているにもかかわらず、未だ一度も現場復帰できていない一因となっている。

1988年の引退時に、ヤクルトのヘッドコーチとなっていた安藤統男は、33歳という若さでの引退を惜しみ、環境を変えればまだ働けるのではないかと考えて掛布に移籍を打診したが、掛布は丁重に断っている(2003年に安藤と掛布が出演したラジオ番組での発言)。偶然ながら、プロ入り時に断られたヤクルトに今度は掛布の方から断る形になった。

[編集] 楽天からの監督要請

2004年秋に発足当初の東北楽天ゴールデンイーグルスから監督要請があったように報じられるが、結果的に田尾安志が監督に就任した。このことについて実のところ、掛布は楽天の三木谷浩史オーナーによって玩具まがいの扱いをされていたことが、先輩である加藤博一から1年後の10月に伝えられた。

[編集] 背番号31

長嶋茂雄の3番と王貞治の1番を足して31番とした、と言われる事があるが、掛布本人は、球団から提示された空いている背番号の中で一番若い番号だったから、と語っている。小学館月刊コロコロコミック』に掲載された漫画『掛布選手物語』(たがわ靖之)では掛布の父の教えとされる「人の3倍練習しろ、それで初めて1番になれる」という教訓と上記「長嶋と王の番号」説を兼ねた感動的な説明になっている。掛布の前に付けていたのは、入団直前の1973年のシーズン限りで退団した外国人選手ウィリー・カークランドであった。また、入団当時の選手名鑑には上田次郎のユニフォームを借り、背番号「16」で写っているものもあった。本人はゲン担ぎで、よく試合前に背番号31にあやかりサーティワンアイスクリームを食べていたらしい。

永久欠番とはならなかったものの、野球ファンの間で背番号31といえば掛布という印象が強い。その印象の強さを表すエピソードに、サッカー大黒将志が初めてサッカー日本代表に選出されたときの背番号が31だった事に「掛布と同じですね。縁起えぇわ」と喜んでいる。

[編集] 好敵手・江川卓

高校時代、練習試合で江川卓と対戦機会があったが、怪我のため掛布は打席に立てなかった。もしこのとき打席に立っていたら自信を喪失してプロ入りしなかったのではないか、と掛布は語っている。プロ入り後、江川は掛布に対する初球は必ずカーブを投げた。しかし、掛布はそれを見送り、ストレートを待って勝負したという(元審判員の三浦真一郎の証言)。また、掛布によると一度江川が自分を敬遠した時にはその球が異常に速く、「本当は勝負したい」という意思を感じたという[1]。掛布と江川の通算対戦成績は、167打数48安打で打率.287、14本塁打21三振33打点。このうち本塁打数は山本浩二と並んで江川の最多被本塁打打者である。

江川とは現在も親友の間柄であり、TVにおいて共演した際には江川に向かい「たまには阪神のOB会に来い」と江川のプロ入りの際のゴタゴタをネタにからかったりしている。

[編集] 人間関係

若手時代に、江夏豊の登板した試合で三塁ゴロをトンネルしてサヨナラ負け、江夏に黒星がついたことがある。試合後、ロッカールームで「江夏さん絶対怒ってる、怒ってるに決まってる」と思って震えていると、当の江夏がズカズカと掛布の所に歩み寄り、正面から顔を睨みつけ、掛布の肩をボン、と叩き「怒ってねぇよ!」と言った。掛布は「ああ、やっぱり江夏さん怒ってる」とますます落ち込んだ、とのこと。また、ある遠征での深夜、江夏の部屋のドアをノックして、遊びを教えて欲しいと頼んだ。東京等の遠征時には連れて行ってもらったという。以来、自身の成績も上昇して、遊びの方も盛んになったという。

読売巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄のことを敬愛している(このことが「長嶋嫌い」を公言している岡田との確執の噂の元の一つとなったとの見方もある)。デビューした年の5月21日の巨人戦でプロ入り初安打を記録した時、掛布は三塁を狙ったが長嶋にタッチアウトされた。しかし、「憧れの長嶋」にタッチされたことが嬉しくてたまらなかったという。同じく新人時代、対巨人戦で安打で出塁した際、王貞治に「うまくなったね」と、声を掛けられ、「あぁ、見てくれていたんだ・・・」と感激したそうである。その後三塁まで進塁した際、長嶋には「若いねぇ、年いくつだぁ〜?」と、言われたそうである。

長嶋が評論家に転じたのち、スランプに陥っていた掛布は長嶋に電話で助言を求めたことがある。すると長嶋曰く「そこにバットある?あったら振ってみて」。首をかしげながら掛布は素振りの音を電話越しに長嶋に聞かせた。音を聞いた長嶋は「雑念を取り払え、無心で振れ!」と言う。今度は無心でバットを数度振り、音を聞かせる。すると「そうだ、今のスイングだ。忘れるな!」と言い、電話は終わった。その後、掛布はスランプを脱したという。

巨人の阿部慎之助の父親は掛布の習志野高時代の同級生で、同じく野球部に所属していた。高校時代は阿部の父親が4番を打っており、掛布は3番打者だった。今でも阿部の父親とは深い親交があり、阿部が子供の頃から掛布に憧れていたのはこの縁に由来する。

タレント松村邦洋にものまねされているが、「阪神よりも下半身がいいですねー。(下ネタ)」など絶対言わないことまで言うので本人は少々迷惑がっている。だが、これをきっかけに親交は深くなった。

[編集] 人物像

“雅之”という名前は掛布の父親が俳優森雅之の大ファンだったことから名付けられた。幼少時に父親によって利き手に矯正。田中好子と共演したミツカンテレビCMでは左手で箸を持ってちらし寿司を食べる一幕があった。実家があった場所は現在ミスタードーナツ京成千葉中央店となっている。

入団初年度時に寮でビールウイスキー日本酒を一混ぜした大皿を一気に飲み干し「これが習志野流」とタンカを切ったり、現役晩年に山本和行と酒の席で山本が「野球は一人で勝てる」と言った事に対して「じゃあ俺達が捕球しなくても勝てるんですか?」と子供じみたケンカをしたり、酒気帯び運転時に警官に「俺は阪神の掛布だ」とすごんだり、かなり酒癖は悪いようだ。ただし、ギャンブルタバコは全くやらない。

現役時代から球界屈指の大変な車好きとして有名。豊中市にある自宅のガレージには日本、世界の希少な旧車・珍車から最新型のスポーツカー、高級車まで常に10数台の愛車が保管されている。実物の車のみならず、模型やラジコンカーも好み、自身のカスタムカーには31のゼッケンを入れているほど。なお、自宅の表札は榊莫山の筆による。

プロ入り後初めての広島遠征で、広島風お好み焼きを食べ「こんなウマイものがあるのか」と感動。当時は全国的には広島風はほとんど知られていない時期だったが、広島遠征では必ず通い、広島の有名店「へんくつや」では、掛布の好きなニンニクいっぱい入りの「掛布スペシャル」というメニューがあった。チームメイトにも薦めた影響で、今も阪神の選手は広島風お好み焼きの愛好者が多い。掛布はこれが高じて大阪・豊中の自宅近くにある通称・ロマンチック街道沿いに「掛布企画」名義で「ほっとこーなー」という広島風お好み焼きの店を持っていた。隣には同じく掛布のスポーツカジュアル用品店「スポーツハウス・フィールド31」もあった。(箕面市に移転後閉店。[要出典]現在は京阪天満橋駅近くに「参拾壱 ほっとこーなー」という地鶏の店を経営している)

野球解説の際にはファーストの事を「ホワスト」と発音する。また、「ひじょうにこう」「やはりこの〜」「ですからその〜」といったフレーズを多用。末尾は「ええ」で完了することが多い。ものまねをする松村邦洋は「掛布さんは『ひじょうに』を1試合の中継で27回以上は言っている」と話している。2007年9月23日放送の着信御礼!ケータイ大喜利の最後のお題に出た際、「げっ、延長ですか…」等の投稿されたネタを言った直後に「本音ですね。」とか「これは無いな。」などと勝手に付け足して喋った。

島田紳助藤子不二雄A作・『プロゴルファー猿』(の主人公・猿谷猿丸)に似ているとよく言われる。

サイン色紙に常に記す言葉は「いつもあこがれ」である。

[編集] 家族

現夫人は米田哲也に紹介された。(知り合った当初夫人は17歳の高校生で、後に武庫川女子大学に進学する。いつも正門の前に高級車を横付けして、迎えに来ていたというが、コレは捏造に近い。婚約発表前はバレると困るので 阪神タクシーを寄越して、それに乗車させデートを楽しんでいた。発表後にマスコミの話題作りで「ポルシェでお出迎え」というので一度やっただけ。

現在、長男の啓悟内野手が社会人野球三菱重工神戸でプレーしているが、彼がつけている背番号も31である。大阪学院大時代にも、主将を務めた四回生時を除けば、1回生〜3回生では背番号31をつけた(四回生の時には主将の慣例で1をつける)。

[編集] 年度別打撃成績

  • 表中の太字はリーグ最多数字
年度 球団 背番号



































1974年 阪神 31 83 162 13 33 8 0 3 50 16 1 1 0 2 30 38 3 .204 8
1975年 106 317 34 78 15 3 11 132 29 0 0 3 0 24 68 8 .246 8
1976年 122 406 69 132 20 7 27 247 83 5 7 2 3 58 52 7 .325(5) 17
1977年 103 381 59 126 18 4 23 221 69 4 4 0 6 52 58 9 .331(5) 12
1978年 129 465 73 148 17 2 32 265 102 7 5 0 2 65 86 5 .318(7) 17
1979年 122 468 107 153 20 3 48 323 95 10 4 0 4 58 61 13 .327(2) 10
1980年 70 258 27 59 7 0 11 99 37 2 1 0 2 28 47 9 .229 6
1981年 130 458 84 156 25 1 23 252 86 1 1 0 4 87 54 8 .341(4) 12
1982年 130 464 79 151 27 0 35 283 95 6 6 0 4 81 69 11 .325(3) 14
1983年 130 483 72 143 25 2 33 271 93 6 3 0 3 74 81 5 .296(15) 8
1984年 130 442 79 119 14 1 37 246 95 3 2 0 3 104 83 11 .269(28) 17
1985年 130 476 102 143 16 4 40 287 108 3 1 0 6 97 62 12 .300(15) 10
1986年 67 254 33 64 11 1 9 104 34 0 2 0 3 28 40 7 .252 11
1987年 106 387 33 88 14 3 12 144 45 0 1 0 3 34 61 9 .227(32) 17
1988年 67 252 28 63 13 0 5 91 32 1 0 0 3 28 37 7 .250 2
通算成績 1625 5673 892 1656 250 31 349 3015 1019 49 38 5 48 848 897 124 .292 167

[編集] タイトル・表彰・記録

  • 本塁打王:3回 (1979年、1982年、1984年)
  • 打点王:1回 (1982年)
  • 最多出塁数:2回 (1981年、1982年)
  • ベストナイン:7回 (1976年〜1979年、1981年、1982年、1985年)
  • ゴールデングラブ賞:6回 (1978年、1979年、1981年〜1983年、1985年)
  • 月間MVP:1回 (1979年4月)
  • 1イニング2本塁打 (1982年8月24日ヤクルト戦、当時史上9人目)
  • 4打数連続本塁打 (1978年8月31日〜9月1日) ※日本タイ記録。
  • 10打席連続四球 (1984年10月3日〜10月5日) ※セ・リーグ記録。
  • 10打数連続安打 (1981年8月5日〜8月7日)
  • 12打席連続出塁 (1981年8月5日〜8月7日)
  • オールスター出場:10回 (1976年〜1985年)
  • オールスターMVP:3回 (1978年第3戦、1981年第2戦、1982年第3戦)
  • 初安打 1974年 5月21日巨人戦(後楽園) 高橋善正から
  • 初本塁打 1974年6月3日広島戦(広島) 佐伯から右越ソロ

[編集] 過去の出演番組

[編集] 現在の出演番組

[編集] ゲスト出演番組

[編集]

  • 1977年遠藤良春が掛布の応援歌「GO!GO!掛布」を歌い、関西を中心に126万枚の大ヒットとなった。掛布本人も1978年はらたいらのプロデュースで「掛布と31匹の虫」を発売したが、こちらは残念ながらヒットには至らなかった。なお、「掛布と31匹の虫」はオムニバスCD「えっ!あの人がこんな歌を・・・。」(1990年7月21日発売)にも収録されている。

[編集] CM

[編集] 漫画作品

このほか、水島新司の『野球狂の詩』や、江口寿史の『すすめ!!パイレーツ』などにも登場している。後者では千葉県ネタに絡むシーンがあった。

[編集] 著書

[編集] 脚注

  1. ^Sports Graphic Number』No.270(1991年7月5日)、P28-32(筆者は二宮清純

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
山本浩二
セ・リーグ本塁打王
1979年
次代:
山本浩二
先代:
山本浩二
セ・リーグ最多出塁数
1981年〜1982年
田尾安志(1982年)
次代:
山本浩二
先代:
山本浩二
セ・リーグ本塁打王
1982年
次代:
山本浩二
大島康徳
先代:
山本浩二
セ・リーグ打点王
1982年
次代:
原辰徳
先代:
山本浩二
大島康徳
セ・リーグ本塁打王
1984年
宇野勝
次代:
ランディ・バース
阪神タイガース
1973年ドラフト指名選手
1位:佐野仙好 / 2位:植上健治 / 3位:小竹重幸 / 4位:尾藤福繁 / 5位:高橋寛 / 6位:掛布雅之 / 7位:山北芳敬
小竹・尾藤・高橋・山北は入団拒否
高橋は、1976年のドラフト5位でヤクルト入団