おくりびと、おくられびと | 世界一小さい新聞

おくりびと、おくられびと

映画「おくりびと」を観た。

主人公の「納棺師」を通して、ヒューマニズムを描いていた秀作だ。


とりわけ印象に残ったのは、火葬場で働く人を名脇役・笹野高史が好演していたこと。


   火葬場・・・そうなんだ、人はいつか灰になる。


と、頭ではわかっているつもり。


「当たり前だけど、灰になったり土に帰るのだから、
自分の体を人様に差し上げても別にたいしたことはない」
と、思う人は少ないが、まったくいないわけではない。


エムソンというカナダの生物学者は、
人体なんて宇宙の中の有機体のプールに
あるに過ぎないから、リサイクルをして、
欲しい人にやってもいいのでは、
と壮大な考え方を示している。


・・・なんと太っ腹な考えなんだろう。


こういう考え方は見習いたいが、

日本人はやっぱり遺体や遺骨にこだわってしまう。


イギリスに住んでいた時、スコットランド人の友人の父親が亡くなった。
悲しみが和らいだ頃、埋葬をどのようにしたか、と尋ねると、
火葬した灰を海に撒いた、と答えた。


それが父との約束だったので、弟と二人で、
ドーバーの海に出かけたこと、父親とのかかわりなどを話してくれた。


散骨は、近年「葬送の自由をすすめる会」が推し進めている運動で、
散骨の葬送を「自然葬」と名づけている。
人工的に火葬しているから、厳密に言えば、自然ではないが、
文明社会で、自然にさらす「風葬」は無理であるから、
自然な気持というニュアンスを持つ言葉の応用かも知れない。


イギリスでは、このように散骨をする人が少なからずいる。
実際、日本ほどではないが、イギリスも火葬の国である。
数年前の調査では、確か70%ぐらいの普及率だった。
日本は突出して多く、95%を超えているはずだ。


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イギリスでは、日本のようにお骨揚げという風習はないから、
遺体は高熱で焼かれ、ほぼ灰になる。
さらさらの灰を骨壷のような小さな容器に入れ、持ち帰る。
故人の希望を尊重して、遺族が遺灰の処理をする。
海に撒く人がいれば、墓地の芝生に撒く人もいる。
こんな風に言うと、日本人は、
撒いてしまっちゃ、身も蓋もないように思うかも知れないが、
その公園のベンチに座って、故人を家族で語らうという風景が見受けられる。


むろん、きちんと教会の墓地に埋葬されることもあるけど、
その墓地も一種公園的雰囲気を備え、
私たちも時々、墓地の近くでサンドイッチを食べて
ピクニックをしたことがあった。


教会の敷地内にあるので、たまらなく静かでおだやかで、
くつろぐことができる。
墓碑銘を読んだり、いくつで亡くなったのかとか・・・
見ぬ人へ思いを馳せることもしてしまう。


ある時など、教会の結婚式が行われており、
ベンチに座る私たちの前を、式を終えた花嫁・花婿が
正装のまま堂堂と横切っていったことがある。


芝生に遺灰を撒いて済ますだけでなく、
管理人のところにメモリアル・ブックやゲスト・ブックがあり、
家族が今年もここへやって来ましたよ・・・という気持で署名を残す。


何年か経て、故人の友達がそこに訪れて、
その署名を見て、感慨にふれるということにもなる。


共同墓地の広い空間は町の特定地域にもあるし、
教会にも墓地があるし、人々は体と魂は別という意識を強くもっているので、
日本人ほどそんなに意識をしないように思う。


ところで・・・


日本には面白い判決が残っている。
法律は定義が大切で、実定法の解釈を法廷で争われることになる。


火葬場で遺骨拾いをした後、遺族がすべての骨灰を持ち帰るわけではない。
遺骨は粉状態にされて、袋詰めにされ、処理される。


しかし考えれば、捨てるにはもったいない。
ナチスドイツがユダヤ人を殺し、灰にし、
肥料に使ったという史実が残っているが、
実際、人骨灰は肥料になる。


作業員が骨灰を集め、売ってしまった。
これが刑法190条に違反するということで、
売った方も買った方も逮捕・起訴され、第一審で有罪となった。


これを不服として、作業員らは上告した。
で、明治43年6月に判決が出た。


刑法190条には、死体、遺骨、遺髪は、遺棄又は領得
した者は懲役に処すという規定があるのだ。


判決は、一審を破棄したもので、作業員らの勝訴であったが、
この時の弁護士の熱弁がふるっている。


要するに、刑法にいう宗教感情を害する犯罪での遺骨は、
遺族が骨壷に納めたものを遺骨というのであり、
火葬場の管理人の自由にゆだねた残りは、捨てるものだ。
いってみれば、散髪屋が刈った毛髪も遺髪と呼ばないのと同じ。


そして、そもそも当地では、慣習で遺灰を肥料などに使用した。
砂塵と一緒に遺骨の残りを収集し、これを捨てたり、
自分のものにすることは、道義的には嫌うことだが、
190条に違反というほどのものではない・・・というのだ。


なかなか説得力のある弁論で、興味深い。