強さ・優しさ、心に満ちる J1鹿島・小笠原満男(上)
3月11日、翌日に清水戦を控えた鹿島はチームバスで移動していた。そのバスが止まる。小笠原満男(鹿島)は「揺れは感じなかった」という。だが、車内のテレビが流し続ける映像は、地震と津波のすさまじさを物語っていた。
東北への恩返し今こそ
故郷の岩手には数日、電話が通じなかった。陸前高田市に住む妻の両親が無事だと知るのは4、5日してからだ。
被災した鹿島が活動休止になると、すぐに車で故郷に向かった。ガソリンが手に入りやすいという新潟、秋田を経て岩手まで丸1日掛かった。
被災地で目にした惨状を「言葉にすることはできない」という。「とにかく食べる物がなかった。放っておいたら、みんな死んでしまうと思った」。足しげく沿岸部に通い、水、缶詰、無洗米、ろうそく、電池、石油ストーブまで届けた。
小笠原は思ったのだという。「僕がJリーガーになって、ここまで来ることができたのは東北サッカー界のおかげ。それなのに恩返しが何もできていなかった。今しないで、いつするんだ」。それは悔いをも含んだ感情かもしれない。
サッカー用具などを送り続ける
小笠原は傷ついた故郷で、東北人の強さと優しさも感じていた。
「東北の人は愚痴を言わない。電気や水が来なくても『早く通せ』とは言わない。『直してくれている人がいるんだから、感謝しなくちゃ』と言って我慢する。みんなで助け合う。そうさせる遺伝子のようなものが体の中にあるんでしょうね」
その遺伝子が騒ぎ出しているのだろう。小笠原はサッカー用具などを大船渡高(岩手)時代の恩師であり、サッカー界に広い人脈を持つ斎藤重信(盛岡商高総監督)に送り続ける。
すると斎藤は「どこに何が必要か」という豊富な情報をもとに、物資を沿岸部に運ぶ。斎藤は話す。「満男は親分肌の人間なんですよ。だから、被災地のことを黙って見ていられないんだ」
「東北人魂を持つJ選手の会」を発足
小笠原は同じように復興支援を始めていた今野泰幸(FC東京)らと連絡を取り合い、支援の方法の相談をした。そのうち「個々でできることは限られる」と悟り、活動を組織化しようという話になった。
5月になると「東北人魂を持つJ選手の会」を発足した。小笠原が案ずるのは子どもたちの心の問題だ。「津波で家や人や車が流されていくのを目の当たりにしたんですからね」
物資を送るだけでなく、東北の子どもたちをJリーグの試合に招待する活動もスタートした。夏休み中には観戦に合わせて、子どもたちの試合も催し、交流の場をつくる。
サッカーだけしていればいいとは思わない
協賛スポンサーを募るとともに、選手がスパイクなどを出し合ってオークションを開き、その売り上げを子どもたちの旅費に充てる計画だ。
小笠原は決然として言う。「プロ選手はサッカーだけしていればいいとは思わない。もちろんサッカーを一生懸命する。でも、それ以外の時間に被災地のために何かできるのなら、僕はする」。その言動に小笠原の強さと優しさが表れている。と同時にこうも感じさせる。強くなければ優しくなれない。
(敬称略)